離婚の判例:宗教問題

離婚の判例集

 人は誰しも思想信条の自由を持ちます。
 何を正義とするか。この世界をどういうものとみなすか。それは各人の自由なのです。

 とは言いながら、現実の世界では、あまりに過激な主張は嫌われるものでもあります。ハーケンクロイツを胸に「ハイルヒットラー」なんて、表立っては言えません。特に日本人は、この手の思想的なものについては「無味無臭」をよしとする傾向があるようです。
 かくいう私、蓮沼も無宗教です。でもクリスマスにはケーキを食べますし、大晦日には除夜の鐘を衝き、正月には初詣に出かけます。この国では、宗教的には曖昧なのがいいのです。

 だから、ハッキリとスタンスを示す宗教が入ってくると、大きな対立や問題に繋がることも少なくないようです。

信仰の自由

 昭和47年に婚姻届を出した夫婦がありました。夫と夫の母、妻が同居し、結婚の翌年には長男が生まれ、二年後には次男が生まれました。
 しかし、昭和55年頃から、妻はエホバの証人の伝道師の話を聞くようになり、月に一度の集会にも参加するようになりました。彼女はどんどん宗教にのめりこみ、昭和57年には、

「エホバの証人を信仰しているから、先祖崇拝はしない」

 と言って、夫や義母と対立することになってしまいました。
 その一ヶ月後、義母は信仰にこだわる妻を家においておけないとして、実家に帰しました。妻は息子二人をおいて、一人で立ち去りましたが、その後、ますます熱心にエホバの証人を信じるようになりました。昭和59年には洗礼も受けて、週3回も集会に参加し、義母の葬式だけでなく、実父の葬式でも、焼香を拒否しました。
 夫婦とも、別居後の最初の2~3年は互いに訪問したり、手紙を出したりしていたのですが、ここに至ってついに夫は、妻の信仰のせいで婚姻関係が破綻したとして、離婚請求をしました。

 大阪地裁は、夫の請求を棄却しました。

「妻がエホバの証人を信仰するようになり、それが原因で夫婦間に亀裂が生じたことは明らかである。しかし、妻は夫と同居中は1週間に約1時間の聖書の勉強会に出席した程度で、その宗教活動のために日常の家事や子供の養育を特に疎かにしたということはなく、また、仏壇に花を供えなかったり、初詣や墓参りに行かないことはあったが、夫や義母がこれらのことをするのを批判したり、妨害することはなく、妻としては、日常の家事や子供の養育には支障がないように相応の配慮をしていたものである。そうとすれば、夫の方でも妻の信仰の自由を尊重する寛容さをもつべきで、エホバの証人の信仰自体をまったく許そうとしなかった夫には、その寛容さが著しくかけていたといわなければならない」

 つまり、夫にも妻にも、いずれも信仰の自由があるはずで、妻が「1週間に約1時間」程度、信仰のために時間を使ったからといって、実害はないはずであるという判断です。また、夫が妻と異なる信仰に基づいて宗教活動(墓参り)をしていても、妻はそれを妨害していないという事実もあります。
 とすると、思想信条そのものを離婚の理由とは認めないという原則が顔を出します。特に、夫は別居後2~3年の間は妻と連絡をとりあっていて、子供も母の顔を見に行ったりしていたのですから。

実質的な破綻

 ところが、これが大阪高裁でひっくり返されます。

「妻には自己の宗教活動を夫との関係を円満にするために自粛しようとの気持ちは全くないこと、仮に夫と妻が同居を再開したとしても、妻が現に行っている宗教活動の状況からすれば、日常の家事や子供の養育に相当の支障が出てくるのは必至であり、夫がこれを容認することは全く期待できないこと、夫の妻に対する不信と憎悪の念が強く、離婚の意志が固いこと、妻は離婚の意思がなく夫のいうことにも従いたいというが、別居期間は既に8年に及んでおり、現実に夫婦関係が円満に回復するという見込みはまったくないことが明らかであり、夫と妻との間の婚姻関係は既に完全に破綻しているものと認めるのが相当である」

 別居中に、妻は宗教活動を更に加速させました。
 週に3回も集会に出かけて、それは熱心に活動していたのです。これでは実質的な夫婦関係の修復は不可能であろうとみて、大阪高裁は現実をとった判断を下したようです。

 この手のケースでは、主張が噛み合わず、議論にならないことが多いです。
 上記の例と同じく平成2年に、こちらは東京高裁で、こんな判断が下されました。

「夫は、前記認定の経過に基づき、自らの意思によって既に長期間別居しており、今後妻が宗教活動をやめても再び夫婦としての共同生活を営む気持ちは完全に喪失したと考えているのに対し、妻は、夫と離婚する気持ちは全くなく、夫が帰ってくるのをいつまでも待っているとはいうものの、夫との共同生活を回復するために、宗教活動を止めるとか自粛する気持ちは毛頭なく、夫が「エホバの証人」を嫌悪するのは、同人がその教義を正しく理解しておらず、かつ、アルコール依存症により精神状態が不安定になっているためであると考えるなど、夫の考え方とは全く相容れない正反対の考え方をしているから、今後、双方が相手のために自分の考え方や立場を譲り、夫婦としての共同生活を回復する余地は全くないものといわざるを得ない」

 この判旨にざっと目を通すだけでも、話が通じてないのが痛いほどわかります。
 平行線というか、意見の対立すら生じないほど、互いの主張はズレまくっていたのでしょう。裁判官もきっとくたびれたに違いありません。

 夫は、この妻との生活において、深酒をして、ときに暴れて物を壊したりもしたそうです。しかし、さすがに裁判所もわかっていて、これは「アルコール依存症だから」エホバの証人を嫌っているのではなく、妻の信仰がストレスになって「深酒した」という因果関係をちゃんと指摘しています。
 結局、双方が主張を譲れないのだから、婚姻は実質的に破綻しているということで、こちらも離婚を認めています。

地に足がついているか

 ここで挙げたのは、いずれも妻が結婚してから宗教にハマったケースです。
 これはこれで悲惨なのですが、逆だったらそれはそれで怖いものがあります。夫がカルトの信者で、何も知らずに結婚、出産後に事実を知らされ……

 他でも述べましたが、問題のある過激な宗教というのは、

「家族愛より宗教活動を優先する」

 思考になってしまっていることです。

 そうなってしまったら、もう家庭は破綻させるしかないと覚悟してください。
 上記のエホバの証人なども、たとえば輸血を禁止しています。つまり、仮に子供が交通事故に遭っても、輸血してあげられないのです。それで命を落とすかもしれません。

 大切なのは、相手が宗教に縋りつくような状況に置かない、ということかもしれません。
 特に少し前は、ここで挙げたような形で「妻が入信して夫がキレる」というパターンが非常に数多くありました。夫からすれば突然の事件ですが、妻からすれば、ずっと心に隙間があったのです。その意味で、妻を孤立させておいた夫の罪も、決して軽くはないのです。
 もちろん、最初から信仰を強制するつもりで黙って結婚したりとか、そういう悪質なケースもありますが。

 健全な宗教は、どこかに寛容さがあるものです。
 蓮沼の知人にムスリムがいるのですが、彼に尋ねてみたことがあります。

「もし、砂漠の真ん中に放り出されて、豚肉以外の食料がなかったら、どうする?」

 イスラム教では、豚肉は禁忌です。しかし、彼は「食べても許される」と答えました。
 健全な精神は、現実を犠牲にしたりはしないのです。

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